# 1931 - 1935 ## 概要 女優ファルコネッティの最終章。社会・文化の変容を見据えキャリアの再構築を図るも、突破口を見出せぬまま短期間に存在感を失っていった時期に当たります。 自身の劇団解散後、ファルコネッティが復帰作に選んだのはサラ・ベルナール劇場『椿姫』でした。「踏み外す」直前の地点に立ち返って再スタートを切ったとも解釈できる動きです。実際に追加公演が行われるほどの盛況ぶりで、彼女の人気を再確認させるものでした。 しかしながらこの後、1935年までの5年弱の期間に与えられた舞台への出演機会は僅かに4回( 『ナポレオン4世』 『ジャンヌ・ダルク』 『被造物』 『トロイ戦争は起こらなかった』 )。デビュー時から年に2作程度、多い年は6~8作品に出演してきたのと比較すると激減と言ってよいペースであり、メディアで扱われる回数も比例するように減少していきました。 これはファルコネッティ個人にとどまる話ではなく、当時のフランスの経済・社会・文化状況とも結びついています。 1930年代前半は経済恐慌(とそれに伴う国際政治の不安定化)の影響が各国で現れてきた時期になります。好景気を前提とした1920年代型の華やかで奔放な文化は現実味を失い、より質朴で堅実なトレンドが模索されはじめる。31~33年頃は何が新時代の観衆に好まれていくのかが確定していない移行期で、流行(やそれを下支えしている価値観)が流動的になっていました。 演劇や演芸にもそういった変化が押し寄せてきていました。この場合、大手(演劇界であればコメディ・フランセーズやオデオン座)であれば経験の蓄積や十分な経済的・人的資本を支えに多少のロスを甘受しながら難しい時期を乗り切っていくことができます。中小の劇場はそれ以上に難しいかじ取りを強いられ、時によっては時代の荒波に呑みこまれてしまうこともありました。一番影響が大きいのは組織的バックボーンを欠いた個人営業主で、よほどの力量と運がなければ簡単に表舞台から消え去ってしまいます。 ファルコネッティが辿ったのは最後のケースに近い流れでした。1920年代の一連のやり取りで大手劇場や有力者との接点が失われている。手に入れた劇場と劇団は経営難で手放してしまい、1930年代初頭にはセルフマネジメントで食いつないでいく立場に追いやられていました。 この時期に出演した作品の内、 『ナポレオン4世』は1928年に初演された作品のリメイク。また 『ジャンヌ・ダルク』 は映画での知名度を当てこんだものでした。『ナポレオン4世』の「優美さ」が賞賛されていたように情感豊かな表現力・存在感が失われた訳ではなかったものの、過去のレパートリーに依拠したと解釈されかねない選択をしたことになります。 時代の変化を念頭に、ファルコネッティが再度の軌道修正を計り始めたのが1935年です。この年、まずはマチューリン劇場で『被造物』に出演。社会性の高い問題提起型の現代劇を得意としていたフェルディナンド・ブルックナー戯曲のフランス語版初演で、人々の情欲や道徳を扱っていく作品に「深い眼差しによって」厚みを与える役割を果たしていました。 同年、アテナ劇場の『トロイ戦争は起こらない』 に客演。自身の劇団を率いて演出を行ったルイ・ジューヴェ( 『女だけの都』 )の他に、マドレーヌ・オズレイ( 『リリオム』 )、ジャン・ルノワールの兄であるピエール( 『十字路の夜』 )など1930年代の仏映画界でも良く知られた実力派俳優と共に舞台に立ちます。 『トロイ戦争は起こらない』 は古代ギリシャに舞台を借り、悪化していく国際社会の動向を重ねあわせた重みのある作品でした。古典悲劇を重視しながら、現代社会の問題を舞台で表現しようと試みてきたファルコネッティの方向性とも合致。反戦劇の秀作として幾度となく再演されていく同作の初演に抜擢されたのは決して偶然ではなく、またファルコネッティが新たな立ち位置を獲得しつつある兆しと理解できるものでした。 しかしながら本公演ではジューヴェ劇団の一員としては扱われず、単発的な客演であったため持続性のあるプロジェクトにはつながりませんでした。オデオン座デビューから20年、『トロイ戦争は起こらない』 を最後の出演としてファルコネッティは仏演劇界、そして母国を離れています。 ## 同時代資料から見える動き 出演作の減少に伴い、メディアでの言及数が有意な減少を見せたのがこの時期です。 1929~31年のラヴニュー劇場時代は否定的な意見表明(批判や揶揄)が増えたのが特徴だったのですが、それも女優への関心や期待の裏返しであったと見ることができます。31年以降はこの傾向が無関心に取って変わられていきます。今後の方向性に対する期待感を含んだ記述が見られず、多くの舞台批評家から見切られている状態が続いていました。 映画界の変貌もまたこの状況を後押ししていきます。1930年代前半は仏映画が無声からトーキーへと切り替わった時期に相当。『裁かるるジャンヌ』の上映環境が失われていった(アンリ・ラングロワが少人数対象のリバイバル上映を行ったのが1939年)のに伴い映画誌、映画論でファルコネッティの名が言及される回数も減っていきます。 - 1931年の『椿姫』再演の「大成功」とその追加公演については5月14日付ル・ジュルナル紙([[引用|1931-05-14|Le Journal|]])、18日付ル・プティ・パリジャン紙([[引用|1931-05-18|Le Petit Parisien|]])等を参照。 - 1920年代後半から時折見られるようになった「台詞を忘れる」傾向はこの時期の記事にも見て取ることができます([[引用|1933-02-23|Faits divers de la semaine|]])。 ## 評価と留保 演劇と映画という異なったジャンルで忘却されていった経緯が異なっている、両者が連動していなかった点においてファルコネッティは特筆に値します。映画界においては技術革新によって以前の作品へのアクセスビリティが低下したのが一番の要因でした。演劇界、批評家や愛好家と築き上げてきた関係性が主要因となった演劇分野とは状況が異なっているのです。 映画は「複製芸術」の側面を有しているため、残されたプリントを元に『裁かるるジャンヌ』の再評価が進められ現在に至っています。一方、「今ここで(hic et nunc)」の関係性を重視する演劇ではよほどの新資料でもないかぎり、ひとたび失われた評価を取り戻すのは難しいと言えます。女優の実娘が「自分がジャンヌ・ダルクのイメージで思い出されるとは予想していなかったでしょう」と語っていたように、評価のねじれた現状はファルコネッティにとって本意ではなかったと思われます。 とはいえ連動はしていなかったにせよ一定の連続性はある訳です。「強い目力」を有し、「涙を流す演技を得意としていた」の舞台評を念頭に『裁かるるジャンヌ』を見直していくと見え方も変わってくるはずです。また映画の演技スタイルから舞台上の姿を逆算し、舞台女優としての実力・実績を多角的に再評価していくアプローチも可能であると言えます。 --- ##### 年表ナビ / Chronology Navigation >[[08_1929 - 1931|← 前の時期]] | [[10_エピローグ:ノリ・メ・タンゲレ|エピローグ →]] ---