# 1929 - 1931
## 概要
制度・因習・経済の制約から解き放たれた女優が自らの名を冠した一座を組織し、自身の考える演劇の姿を形にしようと試みた時期。しかしながら選択が思うように機能せず、これまで築き上げてきた観衆、後援者、批評家との関係に亀裂が生じ、支持基盤縮小を引き起こし後世の評価に影響を及ぼしていった時期にも相当します。
1929年末、ファルコネッティがラヴニュー劇場を正式に買収したという報道が流れました。映画『裁かるるジャンヌ』とサラ・ベルナール劇場『椿姫』の成功もあってタイミングは申し分なく、業界では歓迎ムードが高まっていました。サラ・ベルナール劇場で使用予定だったセット・衣装類( 『フェードル』と『マリアンヌの誘惑』 )をそのまま移籍先に移動させた初期報道からうかがえるように、あくまでも場所が変わるだけでこれまでの延長上にある演目・演技・演出を見せてくれると期待されていたのです。
しかしながら物事は異なった形で動いていきます。
1929年11月、「ファルコネッティとその一座」による初めての出し物はソヴィエトの現代戯曲を下敷きにした『赤錆び(ラ・ルイユ)』でした。革命運動に身を投じた学生や労働者たちの生態を描いた人間劇、社会劇でファルコネッティはヒロインとは言えないまでも物語進行に重要な役割を果たす悲運の女学生ニナを演じています。政治的意図や主張はないと断り書きされていましたが、ボルシェヴィキ革命を肯定的に捉えている世界観に観衆・批評家の評価は二分されていました。
12月となり、夜は『赤錆び(ラ・ルイユ)』上演を続けながら、昼の部では「古典劇の昼」と題された企画を開催。ラシーヌの悲劇『フェードル』でヒロイン役を務めています。これまで多くの舞台女優が名演を残してきた役どころに対し、ファルコネッティは独自の解釈や演出を加えオリジナリティを確保しようとしていました。一定の評価を得たものの、作品が本来有していた神話の世界線が十分に再現できていない、ファルコネッティ以外の俳優が古典劇を演じるレベルに達しておらず一体感を欠いているなど厳しい評価も見られました。
先進的な現代劇『赤錆び(ラ・ルイユ)』と古典劇『フェードル』の二本立てで新旧のバランスを配し、自らの技量を最大限にアピールしていく…年が変わって1930年になっても夜の部の新作喜劇『ジュリエットあるいは夢想の鍵』』と古典喜劇『マリアンヌの誘惑』 で同様のアプローチを進めていきます。しかしながら当時の演劇愛好家のニーズやトレンドに合致していたとは言い難く、上演ごとに評価、メディアでの扱いが落ちていきました。
また1930年、上演中の銃の発砲場面で空薬莢が出演女優に当たって怪我を負わせてしまい裁判沙汰になるなど不運も重なりました。「劇団の面々でさえ解散を誰一人惜しむことはなかろう」。劇場買収時、「数年に渡って舞台を思うよう使うことができる」と期待されたプロジェクトは短期間で終息。ファルコネッティは1931年初頭に劇場を再売却する結果となりました。
## 同時代資料から見える動き
1929~31年はファルコネッティを巡る言説が大きく変容した時期に当たります。コメディ・フランセーズ時代ですら女優を支持してきたメディアから懐疑的、否定的見解が多く発せられるようになってきたのです。両者の対立は単純なものではなく幾つかのレベルにまたがっています。
1)価値観(特に政治的な)をめぐる相違。新劇団の立ち上げにソヴィエト劇を扱ったことで共産主義寄りと見なされ、その価値観を共有していない一部媒体が離反。例えばコメディア誌、ル・ジュルナル紙はそもそも上演評を掲載しない判断を下していきます。
2)メディアとの力関係をめぐる対立。伝統に抗うようにキャリアを築いてきた女優が自身劇場主となり、権力の側に回った際の高圧的な様子、口調を揶揄する記事が散見されます([[引用|1930-01-18|L'Oeil de Paris|]]、[[引用|1929-12-22|Le Merle mandarin|]])。
3)劇場の運営能力をめぐる評価。コメディ・フランセーズ脱退騒動の影響もあり、新劇団は名の知られていないベテラン俳優や若手を中心とした構成となっていました。劇団名( 「ファルコネッティとその一座」 )からもうかがえるようにメイン女優とそれ以外の知名度・実力がかけ離れており、作品で要求されているレベルの表現に達していないという批判が見られます。
4)またこの時期 - 厳密にいうと1928年頃から - ファルコネッティ自身のパフォーマンスの低下が指摘されるようになってきます。役に没入できていない、台詞忘れなど、それまで見られなかった基本レベルでの拙さが見られるようになっていました。劇場運営と演技の両立による負荷がクオリティ・コントロールに影響を及ぼしていた可能性が考えられます。
一方、これまでファルコネッティを扱ってこなかった媒体(文芸誌、女性誌など)が初めて彼女に紙面を割いた例も幾つか見られます([[引用|1930-01-05|Les Dimanches de la femme|]]、[[引用|1930-05-15|Europe|]])。
- 1931年に行われた裁判の顛末については以下の記事([[引用|1932-11-01|La Voix du peuple|]])を参照のこと
## 評価と留保
演劇界と映画界のそれぞれで高まっていた評価のうち、前者に著しい低下が見られたのがこの時期でした。舞台女優としての円熟期に差しかかった年齢において、人々の記憶、演劇史に残る決定的作品を残せなかった事実は以後の評価に多大な影響を及ぼしていきます。
とはいえ、この時期のメディアの「冷遇」にはイデオロギー対立の側面が混じりあっており、個々の作品の評価についてはそこから切り離した検討の余地があると言えます。例えば『赤錆び(ラ・ルイユ)』にしても、1930年前後に劇場を運営していた女優が政治問題を真正面から扱った先駆と見なし、その上で何が足りなかったのか分析しラヴニュー劇場期を再評価していくアプローチなども可能であると思われます。
またファルコネッティは指導力に欠け後進育成に功を残さなかったと見なされていますが、ジャニーヌ・ヴァルナル(Janine Varnal)のようにファルコネッティ一座で舞台デビューした女優が後に一定の成果を残した例も見られるなど事実ベースで精査していく必要があります。
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