# 1927 - 1929
## 概要
『裁かるるジャンヌ』』公開と『椿姫』主演という二つの体験を含み舞台・映画それぞれの文脈で言及が増え、女優像が急速に定着していった時期。メディアで大きく取り上げられなかった動きでも技芸や経験値の蓄積が結果を生み出しており、やりたいことと実際にやれること、期待されていることが一程度の合致を見せた充実期にも当たります。
『裁かるるジャンヌ』の撮影後の1927年11月、ファルコネッティが舞台復帰作に選んだのは『ロレンザッチオ』でした。髪の伸びきっていないボーイッシュな短髪姿で青年ロレンゾを演じ「練り上げられた技芸、抒情性とファンタジー」による「新境地を開いた」の評価を得ます。
同作はロマン主義期の仏作家・戯曲家ミュッセの代表作の一つ。戯曲形式を採ってはいても「実演を念頭に置かずに」書かれていたため上演が難しく、1896年のサラ・ベルーナル初演以後実演が途絶えていました。1920年代に再評価開始。その中心となったのがコメディー・フランセーズ座で、1927年に大掛かりな再演を実現し同作に新たな光を当てたとされています。
しかしながらそれ以前、1926年にファルコネッティがこの作品を取り上げていました。南仏モンテカルロで行われた地方公演で首都圏の演劇界に影響を与えるものではありませんでしたが、その後の再演史を考えると見落としにくい試みではあります。後年の女性誌のインタビューでお気に入りの役柄にロレンゾを挙げていたように彼女にとって思い入れのある役柄で1926年モンテカルロ、1927年マドレーヌ座、1931年ラブニュー劇場と3度主演。とりわけ1927年公演については演出規模はコメディー・フランセーズ版に及ばない一方、演技の質に関してはより高く評価する一部評が見られました。
舞台俳優に対する後世の評価は当時の人気の有無で推し量れるものではなく、演劇界(あるいは広い意味の演劇史)への貢献が加味されてきます。特定の役柄の決定版を演じた、ある作品や戯曲家の普及に貢献した、何らかの新潮流の旗手となった…などの要素です。ファルコネッティは1920年代を通じて人気の高かった舞台女優ながら、この点で実績が乏しいとされてきました。実演難易度の高い『ロレンザッチオ』再評価の先陣を切っていた事実は特記されて良いと思われます。
その後ファルコネッティはマドレーヌ座でもう一作出演(1928年1月 『ミッシュ』 )。『裁かるるジャンヌ』のプレミア上映が行われ(1928年5月)メディア上の存在感を増していくなか、一年前に契約を破棄したサラ・ベルナール劇場と再契約を果たし『椿姫』で同座デビューを果たします。
豊かな家庭環境で生まれ育ちながら「一市民の娘としての誠実さ、真摯さを失ってはない」ヒロインの感情の揺れ・起伏を適切に描き、持ち前の歌声を生かした歌唱を挟みながら、苦悶のエンディングに「見事としか言えないアクセントを与えていく」…演劇学校時代からファルコネッティが培ってきた複数の要素(人の哀れの表現から華やかさのある歌唱術にいたるまで)が有機的に絡みあい、これまでに誰も見たことのないエモーショナルな椿姫体験を実現。サラ・ベルナール劇場のロングラン作品となりファルコネッティ=『椿姫』のイメージが定着しました。同時期に各国で『裁かるるジャンヌ』が公開されていた状況もあって、知名度と人気のピークに辿りついています。
前節で触れたように、『裁かるるジャンヌ』の撮影直後にすぐ休養に入り、そのまま舞台に復帰したため映画誌でのインタビューが残されていないのですが、『椿姫』が終演したこの時期(1929年2月)に一度ポルトガルの映画誌(Cinéfilo)の求めに応じています。撮影時の想い出を振り返りながら(ドライヤー監督と共演俳優シルヴァンに対する最大級の賛辞あり)、「映画の話も多く、4月頃には再び撮影用ライトの下に戻ることになるでしょう。もっとも、まだ計画段階ですが」の発言を残していました。
しかしながらインタビュー直前に当たる1929年1月、それまでファルコネッティを経済的に支えてきたパトロン(アンリ・ゴールドステュック)が死去、女優に多額の遺産を残していました。その資金を元手にファルコネッティはパリのラヴニュー劇場を買収(1929年10月)。同劇場の支配人となり、かねてからの念願であった「ルネ・ファルコネッティ一座」運営に全力を尽くすようになっていきます。舞台の側に重心を置く選択を重ね、映画女優ファルコネッティの像は更新されないまま固定化していくことになります。****
## 同時代資料から見える動き
- 1927年マドレーヌ座版の『ロレンザッチオ』と同年コメディー・フランセーズ版の比較については1927年12月号のランプ誌記事参照([[引用|1927-12-01|La Rampe|]])。コメディー・フランセーズ版寄りの言説については、近年(2013年)に公開されたフレデリーク・プレン氏のオンライン論考( 「 『ロレンザッチオ』を演出する」、 コメディー・フランセーズ公式サイト掲載)を参照のこと。この論考ではコメディー・フランセーズの継続的な努力を高く評価し、ファルコネッティの1926年モンテカルロ版については「反響が少なく」、「配役の質も劣っていた」と傍系の扱いをしています。
- ポルトガルの映画誌シネフィロ1929年3月2日号掲載のインタビュ([[1929 - 『シネフィロ』誌 1929年3月2日号 ファルコネッティ・インタビュー]])は純粋に映画女優に対する質問~回答の流れになっていました。やりとりからは自身の出演映画が国外で評価されている事実にファルコネッティ本人が驚いている様子が伝わってきます。舞台劇はその国、さらには地方の文化史や文芸史との結びつきが強く、ある程度の成功を収めても知名度が外に広がりにくい構造になっています。そういった環境で動いてきたファルコネッティにとって、異言語・異文化・異宗教圏で評価されている状況が不思議に見えたとしても驚きではありません。
## 評価と留保
後年、ドライヤー監督はファルコネッティが『椿姫』で人気を博している状況に驚いた旨の発言を残しています。ファルコネッティを映画女優と認識している監督視点としてこの反応はもっともであり、現在、映画でのイメージを原像にファルコネッティを遡り始めた人も同様の印象を持つと思われます。逆にオデオン座やヴォードヴィル座時代から彼女を追っていて、『ある女の一生』や『弱き女』 を観てきた演劇愛好家にとっては『椿姫』こそが今までのイメージの延長上にあって、むしろ『裁かるるジャンヌ』が例外に見えていたことになります。
舞台女優と映画女優の双方で高い評価を得ながら、二つの評価軸の乖離が進んでいく。前節でも触れていた傾向が1928年前後により顕著に、固定化されていったことになります。
一方で『ロレンザッチオ』のように評価されてしかるべき功績が見落とされているケースも見られます。他にも何かが見落とされている可能性は高く、解像度を高めた女優全史の精査が引き続き要求されています。
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