# 1925 - 1927
## 概要
半年近い時間を要した『裁かるるジャンヌ』撮影を含む、ファルコネッティにとってV字回復の時期に当たります。
コメディー・フランセーズ座脱退後のファルコネッティは2年弱の期間をかけ、中規模の劇場を拠点に女優キャリアの再構築を進めていきました。演劇学校やオデオン座以降に築き上げてきた人脈が一旦途切れてしまったこともあり、名の知れた俳優陣やスタッフと作業する機会は減少、それでも固定フアン層に訴える形で年間2作程度の出演機会を確保。これは1920~24年と同ペースで、題材として重くなり過ぎない社会劇や人間劇をメインに主演を重ねていきました。洗練や軽妙、機智、人間関係の機微の表現が要求される、やや難度の高い作品が多いのがこの時期の特徴です。
期待値と比べればスケールダウン感が否めないとはいえ、業界での居場所を失いかねなかった脱退騒動のダメージを最小限に抑えたと言えます。同世代でトップクラスの表現力を持つ女優がフリーランスの状態で空いている。この状況を前に、ほとんど期間を置かずに二つのオファーが提供されました。イゾラ兄弟とカール・テオドア・ドライヤーです。
イゾラ兄弟は世紀初めの仏エンターテイメント界のキーパーソン。大衆劇場寄りのプロモ―ターとして当時名の知れたパフォーマーや脚本家、作家、作曲家等のネットワークの結節点となっていました。サラ・ベルナールが亡くなって(1923年)看板女優不在となっていたサラ・ベルナール劇場を1924年に買収。勢力拡大を模索する中で新たな花形女優を探し始めます。1927年1月末、イゾラ兄弟とファルコネッティが次シーズンの出演契約を結んだ旨が伝えられました。
サラ・ベルナール劇場でのデビューは10月初め、恋愛劇『パリの恋人たち』に決定。稽古開始まで半年強の時間があります。このスケジュールの隙間を埋める形で受けた仕事の一つが『裁かるるジャンヌ』でした。1927年3月末、ファルコネッティが同作主演に決まったという一報が流れます。
1927年5月17日、『裁かるるジャンヌ』撮影開始。ドライヤー監督の厳密なメディア統制によりスタジオは完全に遮断され、撮影状況(セット写真、バックステージショット、関係者のインタビューなど)が外部に漏れることはありませんでした。それでも紙メディアの情報を通じ、撮影の進捗が時折漏れ聞こえてきます。8月初めには教会での異端審問の撮影が行われていて、同月中旬から監獄のやりとりを撮影。クライマックスとなる最後の火刑場面は10月末の撮影でした。
当初のスケジュールより撮影が長期化、サラ・ベルナール劇場でのデビュー出演と重なっています。ファルコネッティにとっては誤算でした。劇場とは9月末まで調整が行われていたのですが、物理的に出演が叶わず10月初めに代役発表。ただしコメディー・フランセーズ脱退時とは異なり、サラ・ベルナール劇場(特にそのマネージャーだったモーリス・ペローネ)との関係は友好的で後日の再契約に含みを持たせるものでした。
11月初頭、『裁かるるジャンヌ』がポストプロダクションに進んだ中でプロモーション活動も本格化。スタジオがメディア向けに開放され、ドライヤー監督は旺盛にインタビューをこなしていきます。しかしながらジャンヌを演じたファルコネッティの姿はそこにはありませんでした。休養のため南仏に移動していたからです。11月末のマドレーヌ劇場、その舞台には僅かに髪の伸びた女優が主役を張っている姿がありました。
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ドライヤー監督による「ファルコネッティ発見」について補足していきます。
1966年のドキュメンタリー映画『私の仕事(モン・メティエ)』やその他複数のインタビューで同監督はファルコネッティとの出会いを語っています。数ヶ月かけて女優オーディションを重ねるも適役は見つからず、たまたま人に勧められてファルコネッティ出演の舞台を見に行ったところ、現代劇を演じている洗練された女優の化粧の先にイメージ通りのジャンヌ・ダルクを見て取った。楽屋を訪れ映画出演の話を持ちかけたところ自宅に招待され…と続いていくエピソードです。後年、ファルコネッティの実娘が残したインタビューでも同様の出来事が語られており、事実関係に疑念を挟む余地はありません。しかしながらファルコネッティの動向を追っていくと、二人が言及していない事情があったと見えてきます。
ファルコネッティと出演契約を結ぶ以前、製作側は若手舞台女優のマリー・ベルに主演のオファーをかけています。ベルはファルコネッティと同年代に当たるライバル女優で、1925~27年にはコメディ-・フランセーズでのキャリア形成に専念していました。ドライヤー側から提示された撮影中の剃髪は舞台に戻った際に差し障りとなるため、ベル側はこのオファーを断っています。
古典劇や歴史劇を得意とし、表現力に定評のあるコメディ-・フランセーズ俳優に声を掛けたのはキャスティングとして筋が通っています。しかしながら制約、実績判定、内部競争の厳しい同座の主力俳優と簡単に出演契約を結ぶことはできなかった。逆に言うと、コメディ-・フランセーズでの主流派争いの道筋から外れたばかりの若手女優を見つけだせればそれが最適解になるはず。1926~27年、この立ち位置にいたのがまさにファルコネッティでした。
これはコーション司教を演じた俳優ウジェーヌ・シルヴァンにも当てはまります。1910~20年代前半のコメディ-・フランセーズを代表する名優で、演劇学校時代のファルコネッティの師に当たります。しかし同じくベテラン俳優であるモーリス・フェローディとの覇権争いに敗れ、1924年に一線を退いたばかりだったのです。
漠然とした企画で始まったジャンヌ・ダルク映画(制作会社の当初の希望女優はリリアン・ギッシュでした)がドライヤーという監督を迎え次第に明確な形をとっていく。舞台経験を多く積んだ俳優を主体にキャスティングを進めていくも業界内の力学が反映され、コメディ-・フランセーズの第一線にいる俳優は雇えず、反主流派として現場を外されてスケジュールに余裕があった俳優を主とした陣容にまとまっていく…
マクロ視点で見ていくとこのような流れがあって、ファルコネッティはその個別例に相当すると見ることができます。ドライヤー視点で語られた物語は劇的・運命的とすら形容できるものですが、仏舞台界の背景事情を重ねあわせた立体的な理解・解釈が必要です。
## 同時代資料から見える動き
- 1926年初頭の出演作品「プレール」で、ファルコネッティは「必要とさえあればいつでも本物の涙を流し、自身の感情で役柄を豊かにしていくほどの没入感をみせる」と評されている。憑依型で、涙を流す迫真の演技に定評があったスタイルは『裁かるるジャンヌ』との連続性を伺わせる([[引用|1926-01-25|Le Journal|]])
- サラ・ベルナール劇場の『『パリの恋人たち』』の稽古に、9月30日時点でまだファルコネッティが参加していた旨が伝えられている。一週間後の10月7日付で代役(シルヴィ)が正式発表されたことから、この前後にファルコネッティとの契約が解除されたと推測できる([[引用|1927-09-30|Le Gaulois|]]、[[引用|1927-10-07|Comoedia|]]、[[引用|1927-10-21|Comoedia|]])
- 当時の仏エンタメ業界におけるイゾラ兄弟の動向、立ち位置については二人の回想をまとめた『イゾラ兄弟回想録』(1943年)を参照。同兄弟が現役中に関係者とやりとした膨大な書簡類が2015年末、オンラインオークションで売却されました。ファルコネッティが送った書簡が2通含まれており、その内容から女優とサラ・ベルナール劇場の関係性を知ることができます([[1920年代後半 - サラ・ベルナール座マネージャー宛書簡]])
- サラ・ベルナール劇場との契約を破棄したため、映画撮影終了後のスケジュールが一旦白紙になっています。その後すぐに舞台復帰できたのは興業仲介やマネジメントを行うオムニウム・テアトラル社と契約を結んだおかげでした。同社は『裁かるるジャンヌ』を製作したオムニウム映画社と同一の興行ネットワークに属していると見られます([[引用|1927-11-09|Le Presse|]])
## 評価と留保
舞台女優を自認・最優先していた彼女に「映画女優」の属性が付され、評価の二重性が発生し始めた点に注意。両者の評価にねじれの見られる現在とは異なり、当時は「実力派の舞台女優がスケジュールの合間を縫って映画撮影に協力した」の認識がメディア/観衆で共有されていました。撮影~公開前後の映画誌に女優のインタビューが一度も掲載されておらず、誰もそれに疑念を抱いていなかったのもこういった状況が反映されています。
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