# 1924 - 1925 ## 概要 1924年6月から1925年1月まで。コメディー・フランセーズ座で過ごした8か月はファルコネッティのキャリア展望や人間関係、さらにパブリックイメージまで大きく変貌させた転換点に当たります。 同座と正式な契約を結んだのは1924年の2月22日。有期雇用の見習い女優である「アクトリス・パンショネール」の位置付けで、当初の契約期間は同年6月1日から12月31日までの7か月でした。 初出演作に『セビリアの理髪師』を選び、6月18日夜、マックス・デエリー等ベテラン俳優のサポートを得ながらコメディー・フランセーズ座デビューを果たします。11月には『恋する女』の悩めるヒロイン、ジェルメーヌとして登場。年が変わって1月には『ベティーヌ』で同名の主人公を演じ、着実に実績を積み上げていきました。 しかしながらこの軌跡は予想以上に早い終焉を迎えました。直接の原因となったのは1925年1月22日の出来事。前日夜に送られていた至急の出演依頼に気付くのが遅れ、ファルコネッティは昼から始まる舞台に遅刻、客を待たせる形になりました。同僚(ピエール・フレスネイ)に観客への配慮・敬意を欠かさないよう注意され口論が勃発、ファルコネッティ側が退団を申し出ます。劇場支配人の到着後も沈静化せず、昼夜の舞台を勤め終えてそのまま即日の離籍となったのです。 この一日の経緯のみを切り取ると女優側に非があるように思われます。とはいえ話は単純ではなく、彼女の決断は様々な要因が重なった結果であるとされています。 『ファルコネッティ伝』で強調されていたのはコメディー・フランセーズ内の人間関係、しがらみ、対立でした。評伝では劇団に馴染めず、疎外され、「要らない子」扱いされた女優が疲弊していた様子が描かれていました。実際、ファルコネッティ以外にも新人俳優が出演直前に舞台衣装を隠された事例が報告されており、当時の劇団内で嫌がらせやいじめが常態化していた様子を伺い知ることができます。 もうひとつの重要要素は劇団における彼女の評価です。年末になると劇団員の契約更新が行われ、この際に「誰が昇格するか」で一喜一憂するのが演劇愛好家のルーチンになっていました。有期の研修生「パンショネール」の扱いで入団した俳優は、一定の実績を残すと「ソシエテール」に昇格し正式かつ永続的な構成員と見なされるようになります。1924年末、一部の愛好家からはファルコネッティ昇格を望む声があり、女優自身も期待しているという噂が流れていました。 とはいえ演技力、表現力があればソシエテールになれるわけではなく、組織への貢献度や適応性、さらには忠誠心まで長期に観察して判断が下される話です。ファルコネッティは翌年度の契約更新は得たもののパンショネールの待遇については現状維持、専門誌によると彼女の昇格については「話題にすら上がらなかった」とされています。 そもそも8か月間で3作しか出演できていない事実が評価の低さを裏付けています。ファルコネッティにとって運の悪かったことに数年前に入団した先輩女優(マドレーヌ・ルノー、マリー・ベル)が優等生タイプの正統派で、主要演目の娘役を頻繁に引き受けていました。コメディー・フランセーズ視点で言えばあえてファルコネッティを使わなくともルノーやベル等の上位互換に任せれば事足りる話で、「要らない子」も感情的評価というより、当時の編成事情を反映した現実を指していたとも解釈できます。 「わたくしは喜ばしく思っております。劇団の皆さま誰もが喜ばしく思っております」 1925年1月22日、専門紙のインタビューで退団について聞かれたファルコネッティは言葉少なに、「隠しきれない口惜しさをにじませながら」、こう応えています。双方にそれぞれの主張があったはずですのでどちらが正しかったかという議論には与しませんが、女優の発言から1対多の闘いが続いていた様子はうかがえます。 喧嘩別れの形で終わりを告げた関係性は以降の女優キャリアに大きな影響を与えるものでした。コメディー・フランセーズ座の主力俳優はこの後ファルコネッティとの共演を避けるようになり(実質的な共演NG)、彼女は独力でのキャリア再構築を進めざるをえなくなります。さらには次節で触れるように『裁かるるジャンヌ』のキャスティングについても1924年前後のコメディー・フランセーズ周辺の動向が絡んでいる点に留意が必要です。 ## 同時代資料から見える動き - 『セビリアの理髪師』への評では、お披露目公演であるため言葉を濁しているものの「気後れしてやりづらそう」など当初からの不和を感じさせる表現を幾つか見て取ることができる。([[引用|1924-06-21|Le Rappel|]]) - 1925年8月、若手男優のアンドレ・リュゲが着替え用の控室がないことに不満を訴え、改善されなかっためコメディー・フランセーズ座の運営と揉めるという案件が発生。この出来事をアンドレ・アントワーヌが新聞で伝えた際、「ファルコネッティ事件」を引きあいに出しつつ新人いじめの悪習に警鐘を鳴らしている([[引用|1925-08-26|Le Journal|]])。 - ピエール・フレスネイとの衝突、脱退の申し出、「わたくしは喜ばしく思っております」の発言については1月23日付のコメディア紙を参照のこと([[引用|1925-01-23|Comoedia|]]) - ファルコネッティがソシエテール昇格を期待しており、望みが叶わなかった際は劇団を離脱し民営劇場に戻る可能性を示唆していた点については10月5日付ラ・ランプ紙、12月13日付ル・ジュルナル紙を参照([[引用|1924-10-05|La Rampe|]]、[[引用|1924-12-13|Le Journal|]]) ## 評価と留保 後に「ファルコネッティ事件」(アンドレ・アントワーヌ)とも書かれた一連の出来事に関して、女優本人を除くと当事者の直接的な証言は残されていません。ファルコネッティにしても脱退直後は抑制的な発言に終始。後年になるとコメディー・フランセーズを公に批判する発言が出てくるのですが、『裁かるるジャンヌ』やサラ・ベルナール座『椿姫』の成功以後の話で両者の力関係が変化している点に注意。 --- ##### 年表ナビ / Chronology Navigation >[[04_1919 - 1924|← 前の時期]] | [[06_1925 - 1927|次の時期 →]] ---