# 1912 - 1914
## 概要
正式な女優デビューを迎える以前、演技の基礎を固め、将来の人脈と評価の軸が形成されていく時期に当たります。
パリ女子音楽院で学んだ後、1912年10月に国立高等音楽・舞踊学校に合格し籍を移します。彼女が最初に師事したのは、後に『裁かるるジャンヌ』で共演を果たすベテラン俳優ウージェーヌ・シルヴァンでした。学習成果を測るため、同校は年度末に優秀な生徒を対象とした公開型コンクールを開催しており、ファルコネッティは入学から3年連続で参加。最高成績は2度目(1914年6月)に悲劇女優部門で出場した際の準優勝でした。
このコンクールはメディアと批評家、演劇愛好家に新たな才能を披露していく場でもありました。ファルコネッティの個性の強さ、表現力、「豊かな感受性と優美さ」は当時から突出しており、「まだ学ぶ事が多くあるとはいえ」将来性を高く買われていた様子が新聞・雑誌評から伝わってきます。
学習環境を見ていくと、先に触れたシルヴァンだけではなく、パリ女子音楽院を卒業した直後にはルネ・アレクサンドル(1910年代のパテ社短編映画に多く出演)に就いていました。高等音楽・舞踊学校の同門には後に演劇界、映画界に名を残す実力派(ロジェ・ガイヤール、イヴェット・アンドレヨール)が名を連ねており、志を同じくする同世代に取り囲まれ、常に比較される環境下で切磋琢磨していたのが分かります。
## 同時代資料から見える動き
- 実名でのメディア初出は1912年10月。(→ [[引用|1912-10-26|Le Journal||引用|1912-10-26|Le Journal|]])
- 1913年度末に学内試験の成績最上位者に与えられる国家給費生(pension)に選抜されている。(→[[引用|1914-01-21|Le Journal|]])
- コンクール参加時の紹介記事に、性格の強さや御しづらさを伺わせる記述が散見される。後年、識者が当時を振り返った記事に同様の描写が見られることからも、単なる優等生タイプとは異なる、強い自己主張や扱いづらさが早くから認識されていた可能性がある。(→ [[引用|1913-06-19|Comoedia|]]、[[引用|1915-07-07|Le Journal|]]、 [[引用|1930-01-18|L'Oeil de Paris|]])
## 評価と留保
ファルコネッティ自身の1930年インタビュー記事や評伝にパリ女子音楽院在籍の記述はなし。しかし1912年10月28日付けの新聞記事にはクラス名、教師名などの具体的記述があって信頼に足る。仏ウィキペディアなどオンライン情報源を含め、一般的には1912年の国立高等音楽・舞踊学校への入学をもって女優キャリア開始としているが、パリ女子音楽院入学を考慮に入れるなら1910年または1911年まで前倒しされる可能性あり。本プロジェクトにおいては現時点では1912年を起点としつつ、今後の資料発見に応じて再検討の余地を残す。
(→ [[引用|1930-01-18|L'Oeil de Paris|]]、[[1987 - 『ファルコネッティ伝』 (エレーヌ・ファルコネッティ)|『ファルコネッティ伝』]]、[[引用|1912-10-28|Le Journal|]])
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